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学習懇談会
シリーズ12 被爆者運動の自立を戦後史に位置づける
2019.04.13

 日 時:2019年4月13日(土)13:30~16:30

  場 所:プラザエフ5階会議室、参加者33人(うち被爆者8名)

  問題提起者:松田 忍(昭和女子大学人間化学部歴史文化学科准教授)

 原水爆禁止運動のなかで誕生した日本被団協は、1960年代の原水禁運動の分裂を受けて活動休止状態に陥りました。そこから『つるパンフ』作成に至る一連の流れが被団協の『50年史』には「運動の再生」と記されています。この時期の被団協関連文書の解読を通じて、分裂から「再生」に至るロジックを明らかにすることが主題でした。

 松田さんは、この頃の運動については原水禁運動の路線をめぐる対立や分裂の危機に目が向きがちだが、1960年代半ばの代表理事会での議論や運動方針、執行部への批判の手紙などを詳細に読んでいくと、それは単なる「再生」にとどまらない大きな質的転換を伴った変化であったのではないか、と切り出しました。

 原水協との関係が激しく議論されたのも事実だが、活動の停滞はあくまで日本被団協(執行部)の問題であり、東京や東北、山口、福岡など各地には、被爆者「一人一人」を掘り起こしながら進める運動が生まれてきていました。それを東友会(伊東壮事務局長)の資料などで示しながら、一人一人の被爆者がそれぞれの想いを持ちより被爆者としての要求をとりまとめていくプロセスが確立したことに大きな意味を見出し、執行部批判の争点は、被団協の運動と組織の民主的な運営にあったことを指摘。その過程で運動の重点が広島から東京へと変化したことを明らかにしました。

 松田さんは、被団協の『50年史』について、「運動団体が自ら手がけた『年史』として、よくもこれだけ抑制的・中立的に書けたものだ。だからこそ私も安心して資料として使うことができる」と評価しておられますが、このたびの報告を準備しながら、『50年史』には、「再生」後の被団協運動に参加することが被爆者に「生きる意味」を与えてきたことが十分には記されていないのではないかと思った、と貴重な指摘もされました。

 参加者のなかには、他の分野の運動や研究に関わる方たちや昭和女子大学の戦後史プロジェクトの学生さんらもおられ、活発に意見交換がされました。

〔主な討議内容〕

○ 国家補償制度、戦争しないしくみをつくることは国民的課題だと口では言えるが、それをどうしたら実現できるかとなると、次々に壁が出てくる。被爆者のなかには、もう援護法はいいんじゃないかという気持ちもある。そう言いながら、(伊東)壮さんの言う生き方を見つけるというのも実感する。それをどう結合していくか。もう近々、被爆者がいなくなることも間違いない。被爆者が提起した課題は被爆者がいなくてもやらなくてはいけないが、そういう運動をどう創造していったらよいか。

 松田:少なくても、ノーモア・ヒバクシャの会がやっていることは意味がある。60年代だけでなく70~80年代でも、被爆者が自らの思想を磨き上げてきた過程、プロセス自体は、同じ人間なら理解できる。つらかったからこそ運動が起こり大きくなってきたことは、歴史として書けば理解されると、そこに希望をもっている。

○ 70年から運動に参加したので、論争については先輩たちからいやというほど聞かされた。当時の頭でっかちの理論は被爆者にはなじめなかったが、法律や対策が前進し始めた時期でもあり、自分たちの要求を大事にしてきた。77シンポではいろんな人が調査員にもなり、被団協を中心に市民団体との協力もすすんで、運動が質的に変化していった。

○ 60年代は、他の団体にとっても難しい時期だった。安保を背景にした分裂の時代で、青年団の運動も一人一人の生き方をテーマにしながら脱皮していった。被爆者も似たようなところがあるのかな。上の方でドンチャンやっているが、被爆者がいかに成長し変わっていったか、がよく見えて参考になった。

 松田:その横のつながりを見ていきたいと思う。そこが出ていったら、60年代運動史のなかに被団協の変化が位置づけられていくのかな、という感じがする。

 60年代のここの変化というのは、被爆体験を思い出してやっているというよりも、被爆体験があって生きてきて60年代に至り、いま、60年代の被爆者の生活実感の中からやるべきことをやる、というところが大事なのではないか。

○ 60年代には、戦争の危機感(アメリカの戦争に引きずり込まれる)がある。それと被爆体験が一体化する。今それ(引き込まれている)が実証されている気がする。

○ 原水禁運動の複雑なプロセスが影響した停滞から再生の時期は、被爆者運動が自身の意味を見つけ出す過程でもあった。60年代とはどんな時代かを見る場合、米ソの覇権争い(軍拡も経済も)やベトナム戦争の影響が大きい。「いかなる国…」も今なら当たり前だが、当時にしたら大問題だった。60年安保の後、政治運動から身をひきはじめ、いろんな人がいろんなことを考え始めていた。伊東氏のようなアイディアも、提出した人はあちこちにいるのではないか。

 松田:東北ブロックから提示された6つのアイディア(1966年度 日本被団協運動方針(案)、各県被団協の「近年」の活動が列挙されている)が明らかになればよいが、まだ県段階の史料が見えない限界がある。

○ 空襲被災者(傷害者・遺族)の補償運動を追う共同研究で、杉山千佐子さんの資料などを整理した。被爆者運動と比べると本当に小さな運動だが、63年頃に東京で被災者の結集ができたときの契機は、旧軍人への恩給、補償の充実との格差(一般市民に何ら補償がない)にあった。ベトナム戦争の映像ニュースを見聞きするなかで、空襲記録運動への違和感(記録だけでよいのか)から援護法を要求する杉山さんたちの運動へ、という二段階の動きがあった。

 運動を支えるモチベーションは、被災者どうしが語り合い交流できる場を見出し結集していく日常性・生活レベルと、政治論・組織論のレベルの、二重構造をもっているのかな、と思った。松田さんは今日、政治論や思想面の転換点をあざやかに描き出してくれたが、最後に提起された日常性・生活レベルの、語り合ったり交流できるよろこびの部分でいくと、底流にあったものが60年代半ばに再発見され、浮上してきたということなのかな、と見ている。

 松田:50年代半ばには、「そっとしておいてほしい」という意見が多かった。一方で、日常のなかで被爆者としての自覚をもち運動をする人たちが生まれ、被爆者意識がふれあうことで広がりつながり合っていく。政治・組織論と日常性とまとめていただき、自分のやっていることがよく分かった。

 記録と行動することの意味は? 行動しないのに、なぜ記録するのだろうか。

○ 早乙女さんや松浦さんには、自分が体験した空襲の実像を証明する資料がない、隠されているという意識が強い。それを補うのが市民の記憶、手記だということで集める運動が始まったが、幅広く結集するため、補償運動に踏み込まず記録運動に徹したのかもしれない。

○ それは体験の違いもあるのではないか。空襲による傷害は治療が終われば終わるが、被爆者の場合、放射線の被害を受けつづけており、いつまでも忘れることができない。

 松田:『「あの日」の証言』を読んで、原爆と空襲被害の圧倒的な差を感じた。焼野原や黒焦げの死体は同じだが、空襲の場合は、焼夷弾が落ちてきて、防空壕に逃げて…といった時間の流れがある。原爆は、瞬間的にいきなり〈地獄〉になる。何が起きたか全然分からず、人間の理解を超えているところがある。

○ まったく想像できないことが起こった。それと、こんなことは二度と起こってはいけない、というのが一体となっている。(伊東さんの言う)3つの類型(①こんなにひどかった、②身体的障害のみで原爆と自分を結びつけている、③戦後政治のなかでつみ重ねられた被害も含めて原爆被害を総合的にとらえている)は、個人でもその過程を通るし、自分もそうなってきた。

○ 伊東さんが運動の最終目標を被爆者が「生きていてよかった」と感じる状態におきながら、世界大会の雰囲気にはマイナスイメージを抱いているのはなぜだろうか。

 松田:世界大会は日常・生活に根づいていない。伊東さんは、「幹部は地域に帰れ」と、本当の仕事はそこにあると言っていた。

○ 伊東さんの原点は、国立で一軒一軒被爆者を訪ね歩いたところにある。被爆者を探して手帳申請をするとりくみは、被爆者運動の最初からあったことだ。

○「被爆者に「なる」」をテーマに文化祭展示をした。反応がよく、やった!と思っていたが、12.15の公開ミーティングで岩佐さんから「被爆者になんかなれねぇよ」と言われ、びっくりした。プロジェクトのメンバーで話し合い、岩佐さんらの話を聞いて、何も知らない私たちがちょっと分かったつもりになっていたが、長い歴史のなかのほんの一部にすぎないこと、「二度と被爆者をつくらない」と活動してきた被爆者運動がいろんな人たちの思いで成り立っていたことを知った。

松田忍さんの報告内容は、昭和女子大学近代文化研究所紀要『学苑』において公開されています。

「一九六〇年代における日本被団協「再生」の意味を問う : 「被団協関連文書」No.8の分析」『学苑』947号, 14-33, 2019-09

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