HOME活動紹介継承・交流5/21 10周年記念企画Part Ⅲの報告
オンライン・シンポジウム 今こそ“ノーモア・ヒバクシャ”
継承・交流
5/21 10周年記念企画Part Ⅲの報告
オンライン・シンポジウム 今こそ“ノーモア・ヒバクシャ”
2022.06.13

 継承する会は設立10周年企画のしめくくりとして、5月21日(土)の定期総会終了後に、PartⅢのオンライン・シンポジウムを開催しました。21世紀の今、ロシアのウクライナへの侵略戦争とそれに便乗するように国内で高まる軍拡や改憲の動きを前にして、シンポのテーマは「今こそ“ノーモア・ヒバクシャ”」。継承する会の資料や活動に関わってさまざまな取り組みを進めてきた4人の登壇者とともに、今だから果たすべき会の役割をさぐりました。(日本被団協との共催。参加者:44人)

 開会にあたって、中澤代表理事が挨拶。「10年の歩みは必ずしも順調ではなかったが、思いがけない発展もあった。若い、被爆者から見れば孫世代が登場し、各地でも県被団協とともに継承のとりくみを考えていた。人類が核兵器を滅ぼすか、核兵器が人類を滅ぼすのか、切羽詰まった状況にある今、すばらしいシンポにしたい」と述べました。

《設立からの10年をふり返る》

 パネルディスカッションに先だって、設立(2011.12)から10年のあゆみを事務局の栗原から報告しました(詳細は添付資料「設立から10年のあゆみとこれから」参照)。

【資料】はこちらをクリック☛「設立から10年のあゆみとこれから」

 設立をめざす継承センターの「基本構想」(2013.11.2)を確定するまでの議論をつうじて、以下の点が確認されました。
 ① センターを首都圏(東京)につくる独自の意味は、ⅰ)被爆者の原爆にたいするたたかいは、被爆地だけでなく、日本被団協と全国各地でつづけられてきたこと、ⅱ)原爆被害への国家補償をもとめ国の政策と切り結んできた運動の記録は、日本被団協にしかないこと、にある。
 ② センターの性格については、そうした貴重な資料を収集・保存する「資料センター」であるだけでなく、資料の活用をつうじて出会い・学び・交流する場でもあるとして、名称も「ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産の継承センター」とする。

 10年間の活動は、資料の収集・整理・活用と継承・交流の活動を二本柱にしてとりくまれてきました。とりわけ所蔵資料を活用して若い研究者や学生らが調査・研究活動を多彩に展開してきた経験は、今後の可能性を示すものです。
 継承する会の活動は、被爆者運動とその資料から学ぶことを根底に据えています。それは、① 原爆被害の全体像とその反人間性を解明し、② 原爆被害への国家補償を国に、③ 核兵器の廃絶を世界に、求めてきた要求づくりと運動が、“ふたたび被爆者をつくらない”世界を実現する道筋と、それを妨げている被爆国の政策(原爆被害「受忍」政策・核兵器(核の傘)容認政策)を明らかにしてきたから、と言えるでしょう。
 継承の主体は、“ノーモア・ヒバクシャ”(=核戦争の被害者にも加害者にもならない)を望む私たち自身です。継承する会の役割は、残された資料を保存・整理し、次代の人びとが被爆者たちの運動と志に学び、核兵器も戦争もない世界を創造していくための〈手がかり〉として活かせるようにすること、と考えています。

《パネルディスカッション》

 シンポジウムの本番は、二村睦子理事の司会により、桑原美陽さん(昭和女子大学人間文化学科 歴史文化学科3年)、四至本鈴香さん(日本青年団協議会 事務局)、岡英幸さん(市民生活協同組合 ならコープ 組織部)、濱住治郎さん(日本被団協 事務局次長)を登壇者に迎えてのパネルディスカッション。
 以下、その概要をお知らせします。(敬称略。それぞれの自己紹介やとりくみの概要については、添付資料をご参照ください。)

1.自己紹介ととりくんできたことの概要、そこから学んだこと

■ 桑原美陽「歴史学の観点から被爆者を学ぶ―『戦後史史料を後世に伝えるプロジェクト』に参加して得た学び―」
【資料】はこちらをクリック☛「歴史学の観点から被爆者を学ぶ」
 2018年に始まり、私自身は2020年から参加した戦後史プロジェクトは、ゼミではなく被爆者運動の歴史研究をやりたい人たちの自主的研究です。初年度の「被爆者に『なる』」から毎年秋桜祭での展示を重ね、最終年度の特別展「被爆者の足跡」終章パネルには、継承すべきは1945年の「あの日」だけではなく、「あの日」から現在までの被爆者の人生・・・。これまでの被爆者の行動のみならず、思考のプロセスも含めた「被爆者の人生まるごと」を捉え、理解する必要がある、と記しました。
 歴史とは、現在の価値観や問題関心に基づいて過去の事実をふり返り、過去の事実に関連性をもたせて論述したもの。私たちは、継承よりも歴史が大事であり、被爆者運動を歴史にしなければならない、と考えています。戦後の日本や世界の歴史は被爆者運動抜きに理解することができない、とする歴史観が多くの人々に受け入れられたなら、私たちが伝えていかねばならない継承は、すでに実現したも同然だと言えるでしょう。

 よく、「なぜ今、歴史を学ぶ必要があるのか」と質問されますが、逆に、「今だからこそ、歴史を学ぶ必要がある」と言いたい。歴史とは時代の流れや変化に伴って見方が変わるもの。猛スピードで大きく変化するこのご時世だからこそ、第三者の視点で歴史を学び、現代の私たちから見る歴史像を更新し続け、今と結びつけて考える必要があると思うのです。
 また、頭の中に描く被爆者像(政府・世界に訴え運動する被爆者像)とたくさんの写真史料にみる楽しそうな被爆者イメージにズレがある、といった先輩のエピソードから、被爆者も私たちと変わらない「一人の人間」である、という当たり前のことに気づくこともできました。
 知る前と後では全然違ってきます。プロジェクト活動から次につながる大きな気づきを得るとともに、生の史料にふれる機会をつうじて史料の見方を学ぶことができました。歴史面からの継承や学ぶことの重要性を発信していきたいと思っています。

■ 四至本鈴香「日青協事務局と平和の学習会」
【資料】はこちらをクリック☛「日青協事務局と平和の学習会」
 青年団とは、スポーツや文化活動、郷土芸能、祭りやイベント、ボランティア活動など、地域にあわせた幅広い活動をしている団体です。1951年5月に発足した日本青年団協議会は、全国の青年団の上部組織ではなく、各地域で活躍する青年たちをつなぐ同心円的、連絡協的な組織です。国際交流から領土問題(沖縄、北方領土)、地域づくりと並んで、平和やノーモア・ヒバクシャをめざしてとり組んできました。
 昨年11月からは、日本被団協が発行したブックレット『被爆者からあなたに』をテキストに、まず事務局で学びの場をつくろうと平和の学習会を開催してきました。それぞれが読むのではなく、毎月一回終業後に集まって段落ごとに朗読し、それぞれ気になったことを出し合って感想交流をする、という形で進めました。被団協の濱住さんや田部弁護士も参加してくださり、運動に携わった方の話が聞けて、いっそう学びを深めることができました。
 計4回にわたりブックレットを読み、5回目(3月)にはフィールドワークで東京都立第五福竜丸展示館を見学し、船の大きさに圧倒されました。6回目(4月)は継承する会の南浦和の資料庫を訪問。ひととおり資料の説明を受け見学したあと、各々が気になった資料(絵本や生の原稿など)の閲覧もしました。自分の出身地の被爆者の会の証言集などを見て、「被爆に関係ない地域はない」と感じ、今も苦しんでいる人たちやたたかっている人たちがいる事実を知り、学びを深めることができました。

■ 岡 英幸「奈良県における平和の継承活動~ならコープの平和ライブラリーを拠点として~」
【資料】はこちらをクリック☛「奈良県における平和の継承活動」
 平和とよりよい生活のために1974年に創立したならコープでは、先人から今に至るまで、二度と同じ過ちをくり返さない、ふたたび被爆者をつくらない、そのことを忘れない、ということを大切にし、地域の人々や学生と交流しながら、被爆・戦争体験の継承とは、何を目的に、何を継承するのかを考えてきました。
 2006年に解散してしまった「わかくさの会」が発行した3冊の被爆体験集『原爆へ 平和の鐘を』の復刻をめざし関係者をたどっていた入谷方直さんとつながり、「ぴーすかふぇ」で被爆者運動に学び、中澤先生の著書から被爆者のからだ・くらし・こころに残る傷を知り、現地訪問で被爆者の証言を聞くなどの取り組みを重ね、2019年10月、コープふれあいセンター六条の一室に平和ライブラリーを開設することができました。開設記念講演には、日本被団協の濱住さん(胎内被爆者)を招き講演していただきました。
 平和ライブラリーでは、継承する会の資料整理法にならい、2020年から寄贈された資料の整理も始めています。コロナ禍で思うようには進んではいませんが、整理どころかついつい読み込んでしまうなど、皆で楽しみながら取り組み、生の資料にふれることの大切さを実感しています。つい最近、長年探していた「奈良県原爆被災者の会」(わかくさの会の前身の会)が発行した手記集をお持ちの方に出会い、「平和ライブラリーなら安心してお預けできる」と寄贈していただけたのもうれしいことです。
 2021年のオンラインによる第10回国際平和博物館会議には、入谷さん編集の「ならけんのヒバクシャの声」(日・英版)を出展し、奈良から世界の人々に発信することもできました。

■ 濱住治郎「被爆者運動の歴史に触れて学んだこと」
【資料】はこちらをクリック☛「継承する会の活動に触れて」
 1945年8月6日、母親の胎内3カ月で被爆した私は、皆さんと同じで、「あの日」のことは全く知りません。朝出たきり亡くなった父の年齢、49歳になった年に、きょうだいに出した手紙で知り得た父や家族の被爆体験をまとめ、これを今も大事にして、証言の基礎としています。2005年広島平和祈念式典に、東友会から遺族代表として父の遺影を抱いて参加。インタビューで「これから何をしたいのか」を問われ、何も答えられないという恥ずかしい思いをしました。
 被爆者運動との関わりを初めて知ったのは、2011年の被団協総会で出された現行法改正要求「原爆被害者は国に償いを求めます」でした。被爆70年を前に、翌年東友会が開いた学習会で、「基本要求」などについて学び、被団協のパンフや『原爆と人間』(石田忠)を読み、国家補償を拒む国の受忍政策は許せないと思いました。
 大きな転機になったのは、被爆70年の2015年。NPT再検討会議に参加し、6月から日本被団協の事務局次長になりました。翌年には被団協結成60年事業として、ヒバクシャ国際署名、沖縄訪問、二世調査、ブックレットの取り組みが始まり、核兵器禁止条約の採択・発効、「全国被爆二世実態調査報告書」完成、ブックレットの執筆・発行へとつながってきました。
 ロシアのウクライナへの侵略、核による威嚇がつづき、被爆国で「核の共有論」さえ叫ばれています。今日のテーマである「今こそ“ノーモア・ヒバクシャ”」は、単なるお題目ではありません。ふたたび被爆者をつくるなと、被爆者の先達が今までつなげてきた理念であり、被爆者運動は、その実現の道筋が核兵器廃絶と原爆被害への国家補償にあることを明らかにしてきました。
 継承とは「あの日」だけでなく、被爆者のその後のあゆみ、歴史から学ぶこと。日本被団協の「結成宣言」に示されたつよい決意が、いつも私を支えてくれています。

2.ロシアのウクライナへの侵攻や国内での勇ましい発言をどう受けとめているか

 :2月24日のロシアの軍事侵攻や核使用を示唆する発言には怒りを覚えます。ならコープは翌25日、抗議の理事会声明を在日大使館宛に送りました。また、ウクライナへの人道支援の緊急募金を呼びかけ、1,200万円超もの募金が寄せられています。寄せられた募金は日本ユニセフ協会に全額送金し、ウクライナ国内とその周辺国へ避難した子どもと家族のための支援に充てられます。また、その際に「平和の樹を組合員の声で育てよう」の呼びかけに寄せられたウクライナ国民のみなさまに寄せられたメッセージを、ウクライナ大使館に送りました。
 国内でも、「ロシアが日本に攻めてきたらどうするのか」と、核共有、防衛費増、改憲の声が大きくなっています。しかし、核保有国が核を脅しに使い、核抑止論は成り立っていません。核兵器は廃絶への道へ舵をきるべきです。
 不安にかられて感情的になることなく、冷静に慎重に考えていきたい。何より日本を戦争できる国にしてはいけないと、7月には参院選があるので、6月30日に弁護士さんを招いて学習を開く予定です。

 四至本:侵略や核威嚇などありえないと思い、日青協として「態度」を表明し、会長によるメッセージを動画でも配信しました。核兵器をふりかざしたり、戦争による行為は否定されるべきですが、ロシアが絶対悪ではなく、どういう態度でのぞむのか、これをつくるのに普段の学びが参考になりました。
 2歳上の先輩はウクライナにボランティアで支援に行きましたが、自分が日本でできることは何もありません。それでも学習会を通じて身近に感じられるようになりました。「戦争はいけない、それはなぜなのか」を学ぶ機会を少しずつでも広めていきたいと思っています。

 桑原:被爆者運動から学びのきっかけの重要性を知りました。情報にあふれている社会では、学ぶ価値のあるものが埋もれてしまっています。被爆者を初めて知ったのは、中学の修学旅行で広島平和資料館を訪れたとき。そこでは、恐ろしい、こわい、といった断片的知識しか入ってきませんでしたが、PJに関わりあらためて知ることになりました。
 史料で読んだ前座良明さんは、中国(戦場)と広島(原爆)の二つの地獄を体験した人で、その発言の一つ一つに戦争の恐ろしさがすけて見えました。心に残っているのは、「戦争では、被害者であるが加害者でもある」という言葉です。背筋が凍る感覚。この恐怖を誰かに分かってほしいと、さらに学び発信していきたいと思います。

 濱住:ブックレットを作成していく過程で読んだ資料の一つに1985年の「原爆被害者調査―原爆死没者に関する中間報告」があります。ここでは、「あの日」の死者の3分の2は、一般市民(女性・子ども・老人)であることが明らかにされています。ウクライナの戦場を見れば、武器では人は救えません。
 原爆が使用されたのは戦争の結果、そこから9条は生まれました。被爆者運動は、戦争を起こしてはいけない、と教えてきてくれた77年です。戦争を起こさないためにはどうしたらよいか? それが「今こそ“ノーモア・ヒバクシャ”」です。
 1982年、SSDⅡでの山口仙二さんの演説原稿は、「ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ」の後に、「ノーモア・ウォー、ノーモア・ヒバクシャ」と続いており、ノーモア・ウォーは何重にも囲んで強調されています。戦争が核兵器・原爆につながっていくことを示しています。

〔会場から〕木戸季市(日本被団協事務局長):すばらしいシンポ。ひとことだけ言いたい。
 ウクライナ戦争が始まり心を痛めていたが、今は落ち着いています。それは、武力に対して武力は使わない。そのためには9条を守る、実現する、戦争をしない、ということ。ここにウクライナ問題の解決の方法も示されている、と気づいたからです。

3.継承する会のこれからの活動、あり方を考える

 桑原:何よりも、アーカイブス事業に力を入れてほしい。それは、生の史料を見、ふれることで気づきや分かることがたくさんあるからです。
 私の一番好きな史料は、2005年のアンケート調査の設問「つらかったこと」にひとこと小さく書いてあった「広島の娘は嫁にはやれん、と言われた」ということばです。「あの日」だけじゃない、人生丸ごとを知る必要があると、つよく学ぶきっかけになりました。

 四至本:平和の学習会を始めたときには、こんな大きな話になるなどとは思いもしませんでした。ブックレットの学習会に濱住さん、田部先生が参加してくださり、被爆者運動の思いの深さ、熱量を知り、さまざまな方につながり、今回のシンポジウムにまで参加することになりました。継承する会には、今後も声かけや力添えをいただき、末永くおつき合いさせていただきたいと思っています。

 :2018年、武蔵大学での公開ミーティングに参加させていただき、戦後史PJの研究報告「被爆者に『なる』」を聞き、岩佐さんとのやりとりも目の前でうかがいました。昨秋の「被爆者の足跡展」のパンフレットは、何も知らない人にも分かりやすい「国の宝」です。平和ライブラリーでも永久保存で展示していきたいと思っています。
 継承する会の学習会やシンポでは、初めて知ることがたくさんあり、石川の平和の子らがつくった岩佐幹三さんの紙芝居もすぐに購入して夏休みのイベントを計画中です。集まる場がなければなしえないこと。今後も学びの場をたくさんつくっていただきたい。

 濱住:学習会や資料から学ぶ、それも共同で学ぶことで、仲間とともに深く考えることができます。学習会では結成宣言や60年代の危機、国民法廷など様々な問題が出され、私もいっしょに勉強させていただきました。学習会は被爆者自身も学ぶ機会になります。
 東京の4,000人台の被爆者も、毎年200人亡くなっており、10年経つと2,000人、もう10年経つと被爆者一世はほとんどいなくなるでしょう。そうしたときに、被爆者の会の解散後の奈良の取り組みは、一つの力を与えてくれます。戦後史PJのみなさんにも、学んだことを発信して、今後の発展につなげていってほしいと願っています。

おわりに

 二村:生の資料の力を痛感しました。直接読んで考える体験、疑問を率直に聞き、皆で話し合い、誰かのもっている答で分かった気になるのではなく、自分の思ったことを一つ一つ大事にしていく姿勢がすごくいい。それをやるためにも、資料が大事なのだなと思っています。
 継承する会としては、まずは皆が使えるアーカイブスを残していくことがとても大きい。大きな課題ですが、若い人たちがそれを使って、次の時代に新しいものを残していこうとしている姿を力にしていきたい。
 この活動に関わって、最初は、「継承」というのは先々に行くほど情報はどんどん失われていくのでは、と違和感を抱いていました。しかし、きょうの発表もそうですが、むしろ新しい発見や埋もれていたものを掘り起こすことで、世の中に新しい価値が生まれていくことなのだと改めて知りました。

 栗原:被団協のブックレットを被爆者と若い人たちで読み合う場をあちこちでつくっていくことは、各地における継承の拠点づくりにつながるでしょう。読みながら疑問に感じたことをさらに深く学んでいってほしい。
 “ノーモア・ヒバクシャ”は、核兵器に反対するだけでなく、戦争に反対すること。日本は、この2つを結びつけて世界に発信しなければなりません。それを自分のことばで発信する根拠になる資料は、被団協がたくさん残してくれています。それらを共有できる場を早くつくりたいと改めて感じています。
 若い人たちが後につづいてくれることに勇気づけられたシンポジウムでした

関連タグ:なし