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被爆者運動史料 その意義と活用
~昭和女子大学「戦後史プロジェクト」の4年間をふり返って~
継承・交流
3/19 オンラインシンポジウムの報告
被爆者運動史料 その意義と活用
~昭和女子大学「戦後史プロジェクト」の4年間をふり返って~
2022.04.28

 継承する会は3月19日(土)、設立10周年企画のPartⅡとして、表記オンラインシンポジウムを開催しました(昭和女子大学戦後史プロジェクト、日本被団協との共催)。

 開会にあたって、中澤代表理事が「10年間の会の歩みは必ずしも順調ではなかったが、新たに呼応してくれた孫のような若い世代によるプロジェクトの展開を心強く思う」とあいさつ。昭和女子大学のみなさんの4年間の研究をふまえたシンポジウムでは、彼女らの密度の濃い報告と、50数名の参加者による熱のこもった議論をつうじて、被爆者運動史料を残し、学ぶ意義が浮き彫りにされました。
 以下、その概要をご報告します。

《第一部:報告概要「被爆者の足跡」から考える―昭和女子大学戦後史PJの取り組み―》

 はじめに、昨秋、同大の光葉博物館で開かれた「被爆者の足跡」展のもようを短い映像で紹介したあと、1年生の海老原さんが「「被爆者の足跡」展の内容と私たちの訴え」を報告。その後、プロジェクトの4年間の歩みが吉村さん(修士2年)、印出さん(4年)、八木さん(2年)、池水さん(お茶大2年)から紹介されました。
 2012年度から継承する会の被爆者運動史料の整理作業に協力してきた昭和女子大学で、松田忍先生の指導のもと、2018年に立ち上げられた戦後史プロジェクトには、この間、他大学も含む学生・院生38人が参加してとり組まれてきました。

 歴史学を学ぶには「問いを持って史料を見る」ことを徹底的に指導された学生たちは、年ごとに問いを立て、史料とつき合い、秋桜祭(学園祭)での展示を重ねてきました。
 2018年度は、「被爆者が自らを被爆者だと認識するに至るプロセス」に着目。秋桜展のテーマは「被爆者に「なる」」となりました。
 藤平典さんら被爆者個人の史料調査や、吉田一人さんらへのインタビューを行い、「あの日」広島・長崎にいた、私たちと同じ「普通の人びと」が、自らの被爆体験の意味に気づき、同じ体験を誰にもさせてはならないと考えたとき、「ピカにやられた人」は「被爆者」であることを受け入れ、「被爆者に「なった」」。はじめから「被爆者」だった訳でも、同じ瞬間に「被爆者」になった訳でもない、ととらえるようになり、戦後における被爆者意識の形成は、プロジェクトをつらぬく研究活動の柱となったのです。
 この年12月、武蔵大学で開かれた「被爆者の声を未来につなぐ公開ミーティング」で研究発表したメンバーは、その後のグループセッションで岩佐幹三さん(代表理事=当時)から一喝されました。「私は被爆者に「なった」のではない、「ならされたんだ」。君たちに地獄の苦しみが分かるのか!」と。この経験がプロジェクトの活動をさらに一歩すすめていくことになりました。
 2019年度に立てた問いは「なぜ被爆者は証言したのか、どうして話せたのか」。

 岩佐さんへの2回のインタビューでは、「お母さんを見殺しにした」罪意識が岩佐さんの行動の原動力になっていることを知りました。岩佐さんの戦後の歩み(原爆体験)を聞くうえでは、「被団協」新聞に記載された岩佐さん関連記事のスクラップが根幹資料となりました。
 ここから、1年目の議論には「死者」の姿が抜けていたことに気づき、『「あの日」の証言』を集中的に読み込むなかで、被爆者が戦後を生きてくる根幹に「あの日」の死があったこと、さらには、「語りえない」「語りたくない」被爆者もいるなかで、悲惨な体験を語れるようになるには、1977年、1985年に行われた調査や、広がる被爆者同士の輪をつうじた被害認識の共有があったことを知りました。
 この年の秋桜祭展示のテーマは、「被爆者の「発見」」でした。
 3年目の2020年度は、個人に焦点をあててきた2年間の到達点をふまえ、被爆者が寄り集まり、意見をぶつけ合い、日本政府に、世界に訴えかけていくメカニズムにせまりました。
 1)問いの一つは、日本政府の受忍政策にいかに対応していったのか。原爆被害は人間にがまんすることができるのかを問い、全国80か所以上でとりくまれた「国民法廷」(模擬法廷)運動を通して政府側と被爆者側の主張を考察。同時に、二つ目の問いは、2)そうした闘いだけが被爆者を団結させたのか。各地の相談講習会などに集まった被爆者たちの実に楽しそうな写真も多数見ながら、被爆者同士が助け合う相談事業などをつうじて、互いの苦しみを分かち合い、仲間意識をはぐくみ、被爆者運動をより強固なものにしていった、との結論を得ました。
 2020年はコロナのまん延により、ミーティングもオンラインになりました。「被爆者の生きてきた歴史」をテーマとした秋桜祭の展示も、オンラインでの開催となりました。
 最終の2021年度は、「特別展」に向けて被爆者運動の歴史像をどのように整理し表現するかの挑戦となりました。
 決め手となったのは日本被団協の「結成宣言」。「世界に訴うべきは訴え(Ⅳ)、国家に求むべきは求め(Ⅲ)、自ら立ち上がり(Ⅰ)、たがいに相救う道を講ずる(Ⅱ)」という被爆者運動の目的と決意を示したことばが、展示の各章を構成する柱となりました。

 とりわけ苦労した一つが展示の導入パネル。「戦時下の普通の日常」の風景が、原爆で一変し、そこは「人間が人間らしく存在できる場所」ではなくなった。「ふつう」の人びとが被爆者になった。そこに、核兵器が使用されたときの自身の姿を重ね、等身大の身近なこととして受け止めていただけるよう、証言集などの被爆者の生のことばから再構成したものです。

 最後に、被爆者運動史料を継承する重要性について、次のように述べられました。
「今ある問題を考えるキイ」
○ 被爆者の史料は人間味が感じられるものが多い。それは「一人の人間」として原爆や政府、世界、自分自身に向き合ってきた姿勢が見えるから。このような姿勢は、今を生きる私たちにも無関係ではない。
○ 多くの国や人びとが核兵器に反対するが、その意識が「なぜ」表われるのかを考えるとき、「原爆が人間に何をしたのか」を問うてきた被爆者たちの運動史料は、反戦や核反対の根幹を探ることのできる貴重な史料。私たちが直面している問題を考えるキイになる。

「被爆者運動は人間の歴史である」
○ 被爆者運動研究を通して、「あの日」だけが大事なのではなく、その後も含めた被爆者の人生自体を見るのが大事だというのは、大きな気づきだった。「あの日」だけに注目して見えるのは、原爆にやられた歴史、「点」として捉えることになる。その後の被爆者の人生は「人間が原爆に向き合った歴史」「原爆を受けたあとを生きてきた人間の歴史」、つまり今につづく地続きのものとして捉えることができる。
○ 人間の歴史を紡ぐには、その時、その場に居た人びとの声が残された史料が必要不可欠だ。史料が無ければ、そこに存在していたこと自体が分からなくなる。
○ 被爆者運動史料は「「あの日」を繰り返してはいけない」「「あの日」からの被爆者の人生を繰り返してはいけない」と訴え続けてきた人びとが生きた証拠。それを残す重要性は計り知れない。

《第二部:シンポジウム》

 休憩をはさんで、参加者を交えた議論が行われました。はじめに、日本被団協と継承する会のメンバーから発言。

○ いまプーチンがやっていることに体が震える。同時に、あらためて77年をふり返り、どう生きてきたかを考えた。広島・長崎は絶対に繰り返してはならない。家族、友、師に支えられ導かれてきた。これまで三度被爆者になったと言ってきたが、それは外的な出来事に触発された思いだった。今、自分自身の内面「被爆者として、一人の人間としてどう生きるべきか」問われているという思いがする。やっと被爆者になったという感じである。【木戸季市・日本被団協事務局長】
○ 被団協のブックレットの執筆に加わったことと重ねながら特別展を見学し、最初のパネルから釘付けになった。直接には原爆を体験していない胎内被爆者の私は、被爆者運動のあゆみについては学ばなくては知りえない。史料の整理から始まったPJの研究の成果はうれしく感謝したい。生の資料を保存し継承することの大事さも痛感した。【濱住治郎・日本被団協事務局次長】
○ 日青協では1951年の結成以来、平和な社会の実現をめざす活動をつづけてきた。ウクライナへのロシアの侵攻、何より核の威嚇は許しがたい。いま、被爆者運動を学び直そうと、被団協のブックレットを朗読する学習会を続けている。特別展は会長はじめ事務局の全員が見学した。この展示には、ふつうの人びとが被爆者になったことが凝縮されていた。期間が限定されていたのを残念に思う。【棚田一論・継承する会理事日本青年団協議会事務局長ビデオメッセージ】
○ 初年度の秋桜祭から見せていただいた。「被爆者に「なる」」の問いかけがとても新鮮だった。また、武蔵大での5周年記念シンポジウムでのグループセッションにも立ち会い、岩佐さんとのやりとりを見て、学生の皆さんがどう受け止めるか気になっていた。それが新たな研究を進めるステップになったと分かり、こうした研究も相互のやりとりで深められ、発展すると感じている。【二村睦子・継承する会理事日本生活協同組合連合会常務理事、】

【議論のあらまし】

「雨の図」はどのようにつくられたか
○ ロシアによるウクライナへの侵攻、核の威嚇は被爆者として許せない。これまでも試練に立たされ、その時々行動を起こしてきた先人を思いながら、今何が出来るのかを考えているとき、生きる力を奪う原爆に抗って生きる姿を図示した「雨の図」は、壁をのりこえようとしている行動とつながってくる。どのようにつくり上げてきたのか知りたい。

○ 原爆被害と向き合って生きてきた被爆者の心の動きをパンフに載せたい、というところから始まった。85年調査の史料を検討するなかで、被爆したためにつらかったことは、%や数字で表わせるものではない。図にしてみたら、ということになったのが9月末頃。デザイナーや博物館の先生たちから叱られたり助言をいただいたりしながら、被爆者の揺れ動く気持ちをどうしたら伝えられるか、8か月かけてこの「雨の図」をつくり上げた。
 いろいろな組み合わせで襲いかかってくる苦しみ(降り続く雨)のなか、傘をさしながらうつむいて歩む被爆者たち。最後の一人の顔を前向きに上げたのは、入稿ぎりぎりの朝だった。「つらかったこと」や「生きる支え」は、すべて調査のことばを用いている。

ウクライナの事態をつうじて考える
○ プーチンに、あなたが守ろうとする「国」とは何なのか。人のいのち・くらしを奪って、どんな国を守るのか、と問いたい。
 言論・表現の自由は、権力による弾圧をはね返すためのものととらえがちだが、奥平康弘先生は表現の自由とは、人間が人間になるための根源的行為(対話)と言われた。対話によって自己が形成される。本当にそうだと思う。若い人たちに何を望むかとよく聞かれるが、事実を知り、事実と向き合い、自分で考えているのは未来への希望だ。大いに議論しながら、自分の思った生き方で生きてほしい。
○ ロシアもウクライナも、それぞれの「平和」のための戦争をしている。何をもって平和とするかは価値観、歴史観の違いによるが、大事なのは、それでも戦わない、核は使わない、ということだ。核兵器はなぜ使ってはいけないのか、なぜ戦争してはいけないのか。平和教育のなかでは、それを問うことがはばかられる空気がある。しかし、それは被爆者自身が一番考えてきた、人生をもって証明してきたことだ。史料があったら、人間どうし、自由な空間のなかで、議論して歴史をつむぎ出すことができる。

日本政府の「受忍」政策をめぐって
○ (「受忍」政策を知ったことは)衝撃で腹がたった。コロナ禍の、みんな苦しんでいるのだから、みんなガマンしよう、といった感覚にもつうじており、今生きている日本社会の構造を理解し直すことができた。終わったことではない。他人事ではなく、自分がその中に巻き込まれる危険を感じる。
○ 多くの被爆者の話を聞いて、なぜこんな当たり前のことが広がっていかないのか、伝わり方を考えてきた。今日の報告を聞いて涙が出た。人間が受けた人間の苦しみ、立ち向かって生きようとしてきた人生は、多くの人に必ず伝わる。この発表は世界に伝わると思った。若い皆さんの声で伝えるのがいい。
○ 学生のみなさんが自分たちのことばで伝えようとしている。被爆者に「なる」は、ビキニ事件の乗組員の人生、生きるたたかいとも重なってくる。大石又七さんにも30年間の沈黙があり、語り出した1980年代は、世界の反核運動が高揚した時期だが、同時に核戦争の危機でもあった。「語りたくて語っているわけではない。語らなければなかったことにされてしまう」と言っていた。

運動の歴史を研究する/第三者が関わることの意味
○ 一人一人のふつうの人たちがすすめてきた運動の歴史を研究することは、過去を知るのではなく、未来のために知り・解き明かすことで、未来への希望だ。
 継承が、そのまま伝えていくだけなら時代とともに先細りになる。が、このPJや基町高校の被爆者の絵のように、第三者が関わることで、新たな発見が生まれ、伝わり方が増幅していく。ただし、その前提として事実に基づくために、史料そのものが残っていなければならない。
○ 自分にとっての継承は、被爆者の生きて来た歴史を受けとめ歴史認識としてつくっていくこと。歴史にしないと残らない。それが歴史学からの援護だと思う。
 プロジェクトの今後については、史料の読み解き方を含めて定期的に史料紹介をしていくとか、「原爆体験」のインタビューを証言集として出していくこと、などが考えられる。
○ 吉田一人さんも、被爆者のあゆみ、被団協のあゆみを現代史の中に位置づけてほしい、と言っている。第三者が関わることは被団協も大歓迎で、望んでいることだ。

以上


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